若柳流の日本舞踊を東京練馬区にあるお教室で学んでみませんか?舞台演目のご紹介
若柳流代々の歴史
日本舞踊 舞台演目のご紹介
今までに演じました数々の舞台をご紹介いたします。
二人道成寺(ににんどうじょうじ)大和楽
あらすじ: 道成寺を舞台とした、安珍・清姫伝説の後日譚。清姫の化身だった大蛇に鐘を焼かれた道成寺は女人禁制となっていた。そして永く鐘がなかったが、ようやく鐘が奉納されることとなり、その供養が行われることになった。そこに、美しい花子という女がやってきた。聞けば白拍子だという。鐘の供養があると聞いたので拝ませてほしいという。所化(修行中の若い僧)は白拍子の美しさに、舞を舞うことを条件として烏帽子を渡し入山を許してしまう。花子は舞いながら次第に鐘に近づく。所化たちは花子が実は清姫の化身だったことに気づくが時遅く、とうとう清姫は鐘の中に飛び込む。と、鐘の上に大蛇が現れる。
かしく道成寺(かしくどうじょうじ)大和楽
解説: 「娘道成寺」を地にしていて、曲の内容は、若い芸者が吉原の世界で育って行く様を華やかに唄ったもので、我が流派では、芸者と半玉で上演。長唄の「娘成寺」も、昔のはやり歌や小唄を継ぎ合わせた形で作られている様に「かしく道成寺」もその様に、大和楽に置きかえ作られているのが面白い。
連獅子(れんじし)長唄
解説: 能の『石橋』(しゃっきょう)を舞踊化した連獅子には、親獅子・子獅子が登場して、前半には見どころとして、親が子に試練を与えるため、谷底へ蹴落とすシーンが登場します。親獅子は、子獅子を引き立てるようにして前に進み出て、子獅子を谷底へ蹴落とします。子獅子はすがりついて甘えてきます。それでも親獅子はそんな子獅子を、あえて冷たく突き落とすのですが、いつまでも這い上がってこない子獅子が心配になり、「登り得ざるは臆せしか」といって、実は不安に駆られてしまいます。落ち込む親獅子は、やがて、川面に映る子獅子の姿を見つけ、驚きから再会の感動を表現します。後半は、豪快な三味線の演奏に続き、親獅子は白の獅子頭、子獅子は赤の獅子頭で、豪快な毛振りへと移り、最後は正面に向き、「獅子の座こそ直りけれ」と、正面に堂々とした姿できまって幕切れとなります。
加賀屋狂乱(かがやきょうらん)長唄
あらすじ:『加賀屋狂乱』は、男性の狂乱物の舞踊です。男性の狂乱物としては、最も有名なもののひとつです。舞台となるのは、桜のある春の季節です。主人公加賀屋は、病鉢巻(やまいはちまき)に長袴(ながばかま)、さらに恋人の小袖(こそで)を肩に掛けて登場します。この装束は、まさに、狂乱物のイメージを集約したかたちです。「花の夕べの移り香もれて」で、桜の枝を扇にもちかえて、次に二枚扇の振りを表現します。クライマックスに向けて再び手踊りとなり、最後、扇をかざして幕となります。
櫓のお七(やぐらのおしち)義太夫
解説: 安永二年(1773)に初演の、北堀江人形浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』(だてむすめこいのひがのこ)の一部が独立してできた演目。雪の夜にはじまる物語が、途中人形振りを経て、クライマックスの櫓で太鼓を打ち鳴らす場面まで、劇的な展開を楽しめます。 雪の夜、閉じられてしまった町木戸の中、刻限が来たら、宝剣紛失により切腹という恋人:吉三郎を救いたいお七。「降りしきる」との詞章で人形振りとなり、その極限状況の心情を表現していく。人形振りの中、「よしなき人に」と手紙を持っての振り、「とがむる人も」と肌脱ぎ、を見せ、髪がさばけながらも櫓に登ろうとして落ちてしまう。ここで、人間に戻り、あらためて櫓に登って、太鼓を撥で打つ。
雷船頭(かみなりせんどう)常磐津
解説:両国でいなせな船頭一人で振りが有り、俄かに夕立となって雷が落ちる。 太鼓のつづいたのを背に負い、縫いぐるみを着て、虎の皮の褌をした雷と、粋な船頭との、珍妙なコントラストが面白い作品で、私共は船頭を女にして上演。
須磨の写絵(すまのうつしえ)
解説:「松風」を元にした”松風物”の一つ。 在原行平と汐汲みの姉妹 松風、村雨のお話を清元『今様須磨』(いまようすま)で、上の巻き下の巻きの二段にした舞踊になっています。中村橋之助丈と昭和60年に共演した作品です。
■ 大和楽
大和楽(やまとがく)とは昭和初期に男爵であった大倉喜七郎により創設され、成立した新邦楽の一種である。
■ 長唄
長唄(ながうた)とは江戸の歌舞伎音楽として発達してきたもので江戸長唄と呼ばれることもある。多くの人から親しまれてた結果、劇場音楽としての分野だけでなく、幕末頃から次第に演奏会用の曲が作られるようになり、今日でもそうした両面の機能を持っている。なお、古曲の荻江節は、十八世紀の後半において、お座敷唄を目指し長唄から分離した一流である。
■ 常磐津
常磐津(ときわず)とは宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が創始の浄瑠璃「豊後節(ぶんごぶし)」が江戸で禁止された後、江戸に残った門人のうち、のちの常磐津文字太夫(ときわずもじだゆう)が創始したものを、「常磐津」とよぶ。「江戸の浄瑠璃」といえる常磐津は、語りと唄の均衡がとれた音楽であったことから、劇舞踊にはには欠かせない浄瑠璃音楽として、その地位を確立した。武士が主役の時代物が主体であった劇舞踊の特質から、常磐津節の基本的な正確も、線が太い男性的なものとなっています。